物語りの頂点を、体験すべし。 あの『百年の孤独』、一九六七年の五月という、僕が生まれて(もちろん日本列島に生まれて、ニッポンの国家と言語のみに囲まれて生まれて)十カ月後に刊行されたのだけれど、それもメキシコで書かれた。
目論見を持っていたのは僕ではない、編集部である。
【改題】『沈黙/アビシニアン』(2003年7月 角川文庫)• 小説執筆のほか脚本、演出、朗読、他ジャンルのアーティストとのコラボレーションなど、多彩な表現活動を積極的に行っている(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたものです). 1998年『13』でデビュー。
そして『百年の孤独』という小説には、何が孕まれていたのか。 「そこ」には、なにか、ものすごく禍々しいものが存在している。
物語を語るためのふろしきを広げたように見えて、その実ふろしきは何かを包むためにていねいにたたまれているさま。
生きるのをやめられない。
そして私は小説に導かれ京都、長崎、東北と漂泊し、手記「消滅する海」をしたため続ける。 また戯曲『冬眠する熊に添い寝してごらん』(新潮社)や絵本『コレクションさん』(画・後藤友香、青林工藝舎)を始め、アートブックや朗読CDなども発表している。 【著者情報】(「BOOK」データベースより) 古川日出男(フルカワヒデオ) 1966(昭和41)年、福島県生まれ。
3『沈黙』は主人公の薫子が、祖母の家の地下室で十一冊のノートとラベルが剥がれた何千枚ものレコードを見つけるところから始まります。 だけど、本書ではそれがとても難解だった。
最も尖鋭な現代文学である。
かくして、この物語は動き始める。
神の視点という事ですが、この神様も犬や人間や状況について思いついた事をいろいろ面白く語り、古川日出男が戦争や人間について思っている事が面白おかしく、わかりやすく読者に伝わります。 後藤 ラストシーンもある種の問いですよね。
6日本のラッパーがインド映画に出たり、学校ではインドの言葉も入って三か国語教育が当たり前とか。
古川日出男(朗読)、(作曲)、小島ケイタニーラブ 作詞・歌唱 、鈴木雄介(coffee)、近藤恵介(artwork)• システム(どのような形態であれ、トップダウン式に整理されるもの=権力)の支配を拒んでしまうからだ。
「京都は3つある」だった。
さきほど挙げた『僕はスピーチをするために来たのではありません』の中で、マルケスは語っている。 消化しきれないことを前提的に孕むのか。
それは大きな森ができるのと同じ過程である。 いずれにせよ、その言葉が「女」の口から出たという事実は、本作の根幹に触れていると考えていいだろう。
強制的に減らされる。
だから、安心だよ」 どうして安心なの? 「その、死なないですむからさ」 その樹が林となり森となっていく・・・。
満州国も1,2,3とある。 『ミライミライ』の登場人物・三田村真(DJ産土)により編集されたアンソロジー『とても短い長い歳月 THE PORTABLE FURUKAWA』が2018年に刊行された。
生命力に溢れ色が溢れ熱が溢れ、くらくらする。
メキシコで起筆されて脱稿もされたのに、ブエノスアイレスの出版社から刊行された。
『アビシニアン』(2000年7月 幻冬舎)• 「今、ここ」ではない場所を構想する夢見る力が、物語の本質である。
おおきな森 NetGalleyJP 古川日出男著『おおきな森』読了。
彼が知識として知っている「中世」にそっくりの世界だ。
『平家』は日本の古典の中で最も異本が多いという。
それとも神やゴドーと同じく、待たせるだけ待たせて遂に到着しないのか。 その祭りの後に、僕はさまざまな書物と、二〇一〇年でいえばメキシコ市を訪れた。
マルケスの足跡を追うのに、どうしてコロンビアではなくメキシコなのか? ここがやっぱりマルケスの奇妙さだと思う。
ふだん無批判に受け入れている何かがぐにゃっと形を変える。
/女に。
まず、なにか、物語の世界のどこか、だ。
近づいてゆくにつれて、禍々しさは、倍増し、冪乗してゆく。
また、私は、この作品を読んでいて、宇治十帖の本文解釈に関する論文のアイデアを二つ得た。