六歳で父親を失い、本を読むことの好きだった若者としては、家庭環境による条件の差異が、これほどまでに進路を制約するものであることを、このときに痛切に実感したのである。 このような感覚を持つ人は、一般的に変人扱いされそうである。 「今日も」ではなく「明日も」の措辞が、ずしりと胸に落ち込む。
18変化に富む30代の今を切り取った作品は躍動感あふれる一方で寂寥感をも垣間見せ、趣き深い。 1 小熊座叢書 参考文献 [ ]• 2020年11月刊 2500円+税 坊城俊樹句集『壱』 一見ハードボイルドのようでありながら、底流には虚子以来の「客観写生」「花鳥諷詠」が流れる。
真実と虚構、聖と俗、写生と抽象が鬩ぎ合い、美しい句姿が読者を魅了する第五句集。
坂口昌弘著『毎日が辞世の句』東京四季出版 個別参照• 1954年、第3回受賞。
私は十年来の句友が、今後も断乎たることを期待してゐる。 八十三歳に比べれば、私などはまだヒヨッコの年齢みたいなものだけれど、しかしもう二十年後くらいのことなどまったく想わなくなっていて、これからはこのスパンがどんどん短くなっていくのであろう。
俳句を愛し、自然を愛し、人を愛して詠み続けた俳句、331句を収録。
同年には周囲に推されて俳誌「小熊座(こぐまざ)」を創刊し、同名の結社を主宰。
(清水哲男) August 06 2000 魔の六日九日死者ら怯え立つ 佐藤鬼房 八月「六日」は広島原爆忌、「九日」は長崎原爆忌。 風土と生活者の自覚にふかくかかわる。
2。
その姿を見て、作者は「ささぐごとく」と言っている。
しかし、感覚としてわからないでもありません。
作者もそう思っていたので、あれっと虚をつかれたわけだ。
切株があり愚直の斧があり きりかぶが ありぐちょくの おのがあり の鬼房をおもっていた。
生涯 [編集 ] 立商業補習学校(現・塩釜市立第一小学校)卒業。
1939 昭和13年 19歳 1月、小石川植物園前に間借り、日本電気本社の臨時工として通勤。 そして、まさにこの落書きの「人間」のように、消されることもなく生き残ってきた自分の人生を、何か不思議な出来事のように思ったというわけだ。
1947 昭和22年 28歳 秋本不死男の紹介で「新俳句人連盟」に加入。 冠婚葬祭への古くさい権力の介入は、相変らずだ。
私が子どもの頃によく食べたのは、水をたっぷり含んだ二十世紀だった。
だから、この句が特殊なシチュエーションを描いてはいても、普遍性も持つのである。
10代からを耽読する一方で俳句に目覚め 、1935年より系の「句と評論」に投句、の選句を受ける。 2020年10月刊 2600円+税 阿部怜児句集『天守』 客観写生を貫く「花鳥来」同人の第二句集。 この視線の動きは人間のこしゃくな知恵によるのではなくて、自然にそなわった(換言すれば、天が与え給うた)自己救済へとつながる身体的機能の一つだろう。
11しかし、塩竈の生活者としての、土着の性根に立つことなしには、意欲の空廻りを惹起しかねまい。
1975年 昭和50年(56歳) 松島芭蕉祭で加倉井秋を、桂信子と交歓。
「素老人」は強引に「素浪人」に重ねても許されるだろう。